良寛
良寛とその生涯
 ●日本記録映画研究所 作品
 ●上巻「良寛を歩く」(水上 勉) 下巻「良寛の旅」(谷川敏朗)
良寛とその生涯
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良寛とその生涯  良寛様の故郷は越後の出雲崎である。出家して四国の円通寺での修行の後しばらく行方がわからなくなる。しかし四十を過ぎた頃、三島群郷本に漂然と姿を現す。そして国上の五合庵に住まわれた。
 国上山、弥彦山、そして西蒲原平野の村々は、良寛様が鉢の子を手に子供たちと遊んだ風景である。端麗な和歌を詠み、詩を刻み、大らかな美しい墨跡を残された五合庵での二十五年は、良寛和尚の白眉で厳しい仏教者としての実践をつまれた舞台であった。
 この映像は、僧侶でありながら寺に住まず、経を読まず、妻子もなく孤独に、乞食三昧のくらしを続けられ、その生涯を薄幸に閉じられた境涯を、作家水上勉と良寛研究家谷川敏烽フお話を通して描くものである。出来ることなら良寛様の足下に少しでも寄り添うようにして、良寛様が一日一日を重ねられながら悟られた人間の美しい心情、やさしさ、そして人間としてのひたむきな生き方について考えてみようとするものである。
 
 良寛は佐渡の金銀の陸揚げ場所として栄えていた出雲崎の名主で、神官だった橘屋山本家に生まれた。当時佐渡金山は世界屈指のもので、出雲崎の港は佐渡奉行など多くの人々が利用し、良寛の生家も大きな権力を持っていた。また山本家は本陣と定められ、将軍巡見使や諸大名が宿泊していた。
 良寛はここで、宝暦八年(1758年)十二月、父以南と母秀子との長男として生まれたことになっている。というのは、生誕について異説がいろいろあるからである。秀子は橘屋の親類筋に当たる佐渡相川町の山本家から十七歳の折、養女として出雲崎に来た。そして二十一歳の時に与板町の大庄屋新木家より一歳若い以南を迎え結婚している。その三年後に良寛が生まれたのである。幼名を栄蔵といい、十三歳の時大森子陽の子陽塾に入り十五歳で元服した。そしてその後わずかな期間ではあったが名主見習いとしてこの港町を走り回ったのである。名主の役は、幕府の奉行がくれば送迎もせねばならず、人足馬方の手配もしなければならない。栄蔵も多忙な日を送ったのである。
 名主見習い中に漁民の間の争いがあった。名主であったから仲裁にゆかねばならない。栄蔵は両方の言い分だけを代官所に報告した。これでは仲裁にならない、代官は能のない愚か名主だと見くびった。昼行灯だと町人からも笑われたのである。
 こんなことも出家の原因になったのかもしれない。栄蔵は1775年十八歳のとき隣町尼瀬の光照寺に駆け込み破了和尚のもと剃髪して得度し突如出家するのである。
 二十二歳の時、備中玉島の円通寺から玄乗破了和尚の住職就任式に国仙和尚が来た。その縁で良寛は国仙和尚の弟子になり円通寺に行くことになる。

 円通寺は、玉島の町の丘陵の広がる台地にあった。曹洞宗の道場として雲水たちが大勢只管打座の修行生活を送っていた。良寛はその末弟として入山したのである。
 円通寺は観音霊場で格式の高い寺であった。本堂の奥には高方丈があってここは国仙和尚の隠寮であった。
 円通寺での良寛は、そう目立つような弟子ではなかったが風変わりなところがあった。苦労は多かったが天真爛漫なところがあり、要領の悪いこともあったが国仙和尚は良寛の独自な風貌に格別の愛情を持っていたらしい。良寛はこの僧堂で、雨の日は座禅、晴天の日は畑仕事や托鉢の生活を送ったのである。
 十一年目の三十三歳の時、国仙和尚が病気になった。いよいよ死期が迫る予感があったのか、師匠は高方丈に良寛を呼び、一本の杖と大愚の号を与え「良や愚なるがごとく道うたた寛し・・・」という「偈」を授けた。この国仙の偈は良寛のこれからの生涯を先取りするものとなるのである。こうして良寛は、禅僧として行雲流水を生きることになる。そしてまた円通寺での十年は、のちの乞食三昧の生活と清貧に徹する生き方を覚悟するものであった。
良寛とその生涯
 
良寛とその生涯
 良寛は国仙の死後、境内の覚樹庵に一時住むことになるが、そこを根拠にして西国を放浪、やがてぷっつり消息を絶って二度と円通寺には戻らなかった。
 良寛が円通寺で修行中の頃だったか、それとも円通寺を出て放浪中のことか、越後にいたはずの父以南が、突然京都に姿を現し、桂川に身を投げて死んだのである。思想上の行き詰まりとか、脚気からの厭世と言われているが、いずれにせよ悲しい事件が起きた。この父以南の死は、良寛のその後の思想上にも、生き方にも大きな影響を及ぼしたに違いない。国仙和尚の死、そしてそれ以前の母秀子の死など寛政三年から良寛はその人生行路を変えていくことになるのである。
 
 1796年、三十九歳になって良寛は、漂然と諸国遍歴から故郷越後に還った。出雲崎を通り過ぎて郷本の塩焚き小屋に住んだのである。良寛は、出雲崎を通ったけれど、実家には立ち寄らなかった。橘屋は没落がひどく、宿敵京屋に権力もとられた町だったからである。十七年ぶりに帰ってきた良寛にとって寂寥きわまりない眺めだったのだろう。
 塩焚き小屋での暮らしは半年ぐらい続いたが、やがて行方しれずになった。
 この郷本を北上すると寺泊がある。寺泊には良寛ゆかりの密蔵院や妹むらが嫁いだ外山家がある。また近くには大森子陽の墓などもあって托鉢をしながらしばしば訪れた気配が濃い。特に密蔵院は、真言宗の寺で大寺であるが良寛は生涯に三度ほどここに移り住んだと伝えられている。
 1797年良寛は国上山の五合庵に住むことになる。友人原田鵠斉が、破れ庵を泊まり歩く良寛を見るに見かねて世話をしたのである。
 五合庵は、国上山の住職の隠居所で、米五合あればくらしが出来る閑静清貧の堂宇という意味らしい。しかし五合庵は、大雪の日など、誰かが米味噌を運んでくれたのだろう。人頼みでなければ暮らせない想像を絶する不便な庵である。「索索たり五合庵・・・」の詩は、五合庵での暮らしぶりを伺わせる意味深いものである。いずれにせよ五合庵での良寛の暮らしは、孤独の極みであった。
 良寛はここで時には国上寺の役僧のようなことをやっていたようだが、晴れた日には山を下って托鉢をする。途中で子供たちに会えば一緒に遊んだりもした。国上から地蔵堂に行くには野づらの一本道である。そこをゆったりと歩いて、畝の花、草に眼をとられながら村々にたどり着くと、食を乞うて、何か得られればそれを喰べて子供たちと遊んだのである。しかしそこで眼にした親たちの暮らしは悲惨なもので、のちのちまでも良寛の心を痛めることになる。
 
 五合庵の生活は、ひととき寺泊に移ったこともあるが、四十歳から五十九歳まで、いわば壮年期の大半をここでおくられたことになる。清貧孤独の五合庵は、良寛の文芸、思想のすべてが投げ込まれて独自の開花を見せたよりどころでもあった。しかしその一方で、良寛の五合庵時代は、山麓の国上、野積、地蔵堂一帯が信濃川の氾濫の被害を被って不作が続き、荒田を這いまわる蟻のような農民が満ちあふれていたのである。村々の地獄絵をみてただうろうろしている和尚の様子が想像される。五合庵は山上の庵であったから幸い水害には見舞われなかったが、飢餓にさまよう百姓の悲しみを見れば米を乞うて暮らす我が身にも他人事ではなく、悲しみがわいてくるのである。そうした中で五合庵は、宗教的に深い、高い境地にあって自然と共にある人のひっそりした道場であり、高い悟りへ導かれていった人の静かな座禅の場でもあった。
 良寛和尚が五合庵から乙子神社にうつられたのは五十九歳の時である。春夏はともかく冬ともなれば五合庵のくらしは身にこたえたであろう。
 乙子神社は、五合庵への旧道を降りてすぐの集落国上村から国上へ向かう表参道の中間あたりにあった。越後一の宮弥彦神社の末社でこのあたり一帯の鎮守さまである。しかしこの庵も決して快適なところではなかった。三間四方、十八畳の広さで炉も切ってあったが物置といってもいいようなところであった。まわりは杉木立で陰気でやはり雪の季節は雪に閉じこめられてしまう。五合庵より村に近かったのと、ここにうつらなければならない五合庵の事情でもあったのだろうか。
良寛とその生涯
 
 和尚が乙子神社に越してきてから来訪者がふえてくる。良寛もここに入るといっそう文芸に精進された。万葉集も勉強されて歌風も変わってゆくのである。読書と作詩三昧の生活だったようである。長岡藩主牧野忠清が領地を巡察した途中に立ち寄ったのもこの乙子の庵であった。和尚の人柄を信奉していた領主は、どこかへお移ししたいと思っていたのだが、良寛は一言も言わずに半紙に、

たくほ
どは、風がもてくる落ち葉かな

と書いて渡したという。
 

 乙子の庵は、いくらか地蔵堂にも中島にも近くなった。和尚も何かと乞食して回らねばならぬから物を集めるには便利だったのだろう。この頃たくさんの貰いものに対する礼状が残っている。醸造家だった阿部定珍は、よく和尚を訪ね生活物資を運んでいたようである。彼自身和歌、詩文に秀れていて親交が深かったようである。
 もう一人の親友は原田鵠斉である。鵠斉は医者で歌人でもあった。良寛との贈答歌をたくさん残している。野積みの風景は、雪解けの春から始まって心をときめかす美しい風景である。良寛さまも、鵠斉も、定珍もみな野積みを歩いて歌心をそそられたにちがいない。詩人たちの里だったのである。
 国上や乙子神社から飢餓にさまよう百姓たちのむらを良寛がどのような気持ちで歩いていたか。信濃川の分水の近くに(今の分水所)願成寺という浄土宗の寺があり、和尚が子供たちともかくれんぼをして遊んだ鐘楼が今も残っている。飢餓の年まわりには娘たちの姿はめっきり減ってやせこけた子どもだけが村にあふれていた。そして和尚の後を喰いついて歩いたのである。村はずれで子どもたちと過ごす風景がしばしばみられたのである。
 あちこちの家に良寛の書が残されたのもこの頃である。食をふるまわれたお礼に書いたものか、せがまれてのことか、多くの素朴な墨跡が残されている。
 乙子神社の生活は春夏はともかく冬は年老いた和尚にはつらかったのだろう。たった一人の弟子遍澄によって和尚は、和島村島崎の木村家に移ることになった。木村家は素封家で真宗の信者だった。文政九年、和尚六十九歳であった。五合庵の生活を入れるとざっと三十年。和尚にとっては長い歳月であった。良寛はこの住まいで五年ほど過ごすのであるが、かなりの人が訪れている。中でも貞心尼という尼僧である。また与板にいた弟由之、それから徳昌寺の大機和尚などがいた。和尚をしたって訪ねてきた貞心尼のことは、なぜこのような優しい尼僧があらわれたのか。出雲崎でも、寺泊でも、地蔵堂でもそういう人はあらわれなかった。女性といえば母秀子か、妹のむらぐらい、もっとも維馨尼という和尚を慕い和尚も優しくした女性もいたが、貞心尼は和尚をしんから慕い和尚もまた尋常ではなかった。憧れを抱いてその来訪を心待ちにされたことが木村家に残る書簡でわかる。貞心尼は当時三十歳ぐらいの女ざかりであった。長岡藩士奥村五兵衛の娘で俗名を「ます」といった。一度嫁ぐが五年で夫と死別、実家に帰るが、のちに柏崎の洞雲寺で剃髪して尼になった。
 良寛和尚のことは柏崎でも聞こえていたのだろう。和尚の歌の深さ、すばらしさにひかれたようである。そして逢うたびに和尚の宗教的けだかさ、境地の高さにひかれ、歌を学びたいと思ったのであろう。また尼になって浅からぬとはいえ和尚にすがって救われたいとも思ったのではないか。女ざかりであるがゆえに和尚のやさしさにひかれ敬慕の情をふかめていったのではないだろうか。
 貞心尼は、和尚との歌の交友を重ねていくが、その様子が「はちすの露」の中に残されている。
 貞心尼はここでの五年の間、足繁く木村家をたずね語り合った。貞心尼のひたむきな心につり込まれて和尚も夜更けになっても彼女をひきとめ、朝方まで語り合ったこともあったという。仏道、歌道の道を学んだのであろう。
 
良寛とその生涯  良寛の病状は八月頃から悪化して、与板にいる由之は何度も島崎に見舞っている。一時小康状態を保つが十一月下旬に入ってまた病状が悪くなった。由之は、父以南と同じ脚気に悩み、心配しながらも見舞いに行けぬいらだちを歌に託している。
 良寛の病床は、木村家の人々や貞心尼によって片時も見放さずにいたようである。良寛の病気は赤痢だとか直腸癌だったといわれているが、十二月に入ってもう食べるものも口に入らず弱っていった。良寛はひたすら貞心尼のくるのを待ち、貞心尼がくると思い残すことのないような喜びを感じていたのだろう。その気持ちを歌に託している。またその日は布団にすわる元気があったようだ。由之も二十六日にはよんどころもない用事で与板に帰るが、正月あけて四日には島崎にもどってきて良寛の喜ぶ顔に接している。天保二年正月六日の午後四時過ぎ良寛は二人の前で息を引き取った。その死は禅僧らしく坐亡だったと伝えられている。貞心尼も臨終のときはつぶさに看護役をつとめ、その最後をみとることができた。
 墓は、木村家のすぐそばで木村家の菩提寺にある。墓碑には「良寛和尚憤墓之地」そして「僧伽」の一遍が刻まれている。のちのことにあるが弟由之の墓もその隣に並べられた。貞心尼の墓は柏崎の洞雲寺の境内にある。

 良寛和尚が死の前日知人に残した歌がある。

形見とてなにか残さん
春は花、山ほととぎす秋はもみじ葉


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